2012-03-11

東日本大震災から1年/当初の様子


あの日からちょうど一年。

2万人もの方が犠牲となり、今なお30数万人の方が避難生活を余儀なくされている。心から哀悼の意を表するとともに、避難生活をなさっている方々のご健康を心より祈りたい。

[地震発生]

一年前の午後2時46分のことは昨日のことのようによく覚えている。

私は自転車に乗り、7,8分ほど離れた友人宅に小2(当時)の次男を送り届ける途中であった。近所の世田谷観音の坂下の交差点で信号待ちしていたのだが、なにやら目眩がする。さらに、ぐらぐらと揺れがおそってきた。地震と気づき、自転車から降りて揺れが収まるのを待った。

目の前のヤクルト販売所のガラスがガタガタと激しい音を立て、建物全体がはっきりと揺れるのがわかった。道を隔てて隣の下馬地区会館は増築したらしき部分のジョイントが離れ、隙間の向こうに青空が見えた。

「どこかで大地震が発生したに違いない」と感じて、次男とともに自宅に戻った。

帰宅後も余震が続き、築60年と30年の木造家屋はぐらぐらと揺れた。ガスが自動停止した。この辺では停電はなかったようだ。片時もラジオ(ナショナルAM専用)を手放さず、そのたびに外に飛び出した。テレビでは「○○で死者○人、行方不明○人、、」と言っていたが、東京でさえあの揺れなのだ。震源付近の東北太平洋沿岸の被害はどれほどのものか。人的被害は報道のたびに尋常ではないスピードで増加していった。

時間がたつにつれて、次々にテレビやインターネットから流される映像は見たこともない巨大な津波の来襲、コンビナートの大爆発、、、、とあまりに衝撃的なものであった。

私には、東北日本海側に故郷の鶴岡(山形県)があり母と兄が住むが東京と比べても被害らしきものはないことを早い段階に報道で知った。

しかし、大規模な被害が予想される範囲に女川、福島、東海村と3箇所(福島は二箇所だから正確には4箇所)に原子力発電所が稼働していることにさらに強い不安を覚えるようになった。

「海洋への放射能漏れなどなければよいが」と、思っていた私の想像を上回る重大事故が発生した。

[原子炉爆発]
大地震発生の翌日3月12日から15日までの間に1号機から4号機までの4つの原子炉、タービン建屋で水素爆発などの爆発が起こり、大量の放射性物質が拡散したのだ。海洋への放射性物質の流出は言うまでもなく莫大なものとなった。

これにより、3月15日、さらに23日には、東京世田谷・弊社の線量計(β線/ロシア製RADEX。5年ほど前に購入)は通常の自然放射線量0.12~0.14マイクロシーベルト/時を大きく上回る約0.26を記録。これは、見かけの線量では2倍程度だが、バックグラウンドを除いた0.12~0.14は、約230キロ離れた原発から飛散してきた放射性物質に由来することは明らかであり、今後、放射性物質による大規模な汚染を予見させるのに十分な事象だった。

事故続出、事故隠蔽も続出で明らかに莫大で危険なエネルギーを制御できない欠陥品、しかも廃棄物処理技術も確立しないままの原子力発電の商用化には学生の頃より反対であった。しかし、それを私は積極的に行動に表してこなかった。それを強く悔いた。私の周りではこのような「消極的原発反対派」が多く、商売仲間からも同様の後悔をいくつも聞いている。

私自身、今後起こりうる最悪の事態~子供や家族への健康被害、避難や事業の休止~といった恐怖に鬱々たる気分を味わった。とくに15日の気分は最悪で、放射性物質の飛来に反応したのか、人間社会の空気に同調したのか、近所の高校の森から一晩中聞こえてくるカラス達の鳴き声が私の不安をさらに増幅させた。生まれ育った鶴岡でも、成人後の生活の拠点・東京、埼玉でも災害に見舞われたことがない私が自分のこととしてはじめて遭遇する天変地異+大規模人災といってよかった。